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当blogについて

当blogは、管理人KKの雑文サイトです(著作権は放棄しておりません)。

10代の頃から、ものを書いてきました。
大学時代は同人誌作りに血道を上げ、そこで小説を発表したりしました。
今思うと「若気の至り」といった感じで赤面してしまいますが、本気でした。

何年も書いてきてわかったことは、私は韻文の人間ではなく、散文の人間だということです。
昔から韻文を試みてもどうしても説明調になってしまい、加えて、フィクションをと思ってもどうも身近なことしか書けない。
そんな私の表現手段としては、どうやら「エッセイ」が最適のようですが、ここに公開する文章を自ら「エッセイ」と称するのは少々抵抗があります。
よって「雑文」としましたが、もちろん、「雑に書いた文章」ではありません。
そのときそのときの、最上の誠意を込めて書いたつもりです。

お目通しいただければ、幸いです。

# by kreis_kraft | 2019-12-31 12:00 | ご挨拶

宇和島へ(その4)

まだ夜が明けきっていない5時少し過ぎ、お目当てのうどん屋さんが見える角で歩みを止めた。
人の気配がしなかった前日と違い、お店に灯がともっている。
ドキドキしながら、汁のいい香りが漂っている店内へ。

開店早々というのに、すでに3人の先客がいた。ひとつお願いしますとお店の方に頼み、テーブルに着く。
吉村さんの文章によると常連客は自分でうどんを茹でたりするようだが、そのような方はいなかった。みなさん黙々とうどんを啜っている。
しかし、食べ終えた器を調理場の流しに置いて出ていくので、私もそれに倣おうと決める。
ほどなくうどんが運ばれてきた。

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かき揚げ、じゃこ天、カマボコが乗っている。
ひとくち汁を啜って、ここでもいりこダシだ、とうれしくなる。「汁が絶妙にうまい」と吉村さんは書いているが、本当にその通りだ。旨い。
麺はさほどコシが強いわけでないが、この汁にぴったりだと思う。そして、じゃこ天とかまぼこというご当地ものの具がまたうどんに合う。かき揚げの中身は小海老で、プリプリとした食感が楽しめた。
途中から、食べ終わるのが惜しいと思った。

器を流しに運び、お勘定をお願いすると380円ですとお店の方。
お代を払ったあと、おずおずと「色紙を撮影してもいいですか」とお伺いしたところ、にこやかに「どうぞどうぞ」。

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色紙を求められても固辞するのを常としていた吉村昭が「朝の うどん」と色紙にしたためた経緯は、その名も「朝のうどん」というエッセイをご覧いただきたいが、この滋味あふれる文章を読んで、私はこのうどん屋さんに行ってみたいと思ったのである。
吉村さんが書いているように、色紙は小型で、壁に付いて稼働していた扇風機よりもこじんまりしたものだった。想像していた以上に、小ぶりなものだった。
うどんを味わえただけでなく、色紙を見ることもでき、私はすっかり腹も心も満ち足りて、小川に沿っている道を歩いてホテルに戻った。宇和島に来たかいがあった、と思った。
再び寝間着に着替え、文庫本を取り出し「朝のうどん」を読み返した。

朝、あわただしくうどんを食べる客たちは、たとえ私の小色紙が壁にかけられていても眼をむけることはないだろう。
(吉村昭「朝のうどん」/『わたしの普段着』所収)

いえいえ、私はしっかり見ましたよ、それから、お書きになっていた通り、400円でお釣りが来ましたよ、とひとりごちた。
胃に落ちたうどんで身体が温かくなったこともあり、もうひと眠りに入るのは、楽だった。


目が覚めたのは10時半近く。
慌てて身支度を整え、荷物をまとめてチェックアウト。
ホテルを出て向かったのは、昨夜に続き、再び「ほづみ亭」。11時からのランチタイムである。
お目当ては「さつま汁」。定食(1000円)があったのでそれを注文した。

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とろろのように見えるのが、さつま汁である。

白身の魚を焼いて身をほぐし、辛子味噌をまぜて擂り鉢ですり、薬味を入れて麦飯にかけて食べる。とろろ飯と外観は似ているが、ことのほかうまい。市内にはさつま汁を食べさせる店がいくつもあり、宇和島に行くたびに必ず食べる。
(吉村昭「宇和島への旅」/『旅行鞄のなか』所収)

画像で、さつま汁の上に見える薬味を投入し、かきまぜてお櫃から盛ったご飯(「ほづみ亭」は麦飯ではなかった)にかける。

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これが、確かに「ことのほか」美味だった。魚と焼き味噌がかすかに香る、粘り気がまったくない汁をかけたご飯の美味しさといったら!齧ると舌に清新の気を蘇らせる薬味も相まって、何杯でもご飯がいただけるような気がした。
そして「鯛めし」同様、ご飯おかわり自由である。
これで、蛸と大根の煮物、お新香、ちりめんじゃこのお吸い物もついて1000円なのだから安すぎる。

宇和島に来たならば、一食一食おろそかにはできない。
(吉村昭「宇和島への旅」)

その通りです。吉村さんの言葉に心からの共感を覚え、朝のうどんよりもゆっくりと、ゆっくりと、さつま汁かけご飯を味わった。

宇和島を出る列車の発車時間まで少しあったので、和霊神社まで足を伸ばした。

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正直、宇和島藩のお家騒動に関連するこの神社にさしたる関心はなかった。
が、坂本龍馬(1836-1867)ゆかりの神社と聞けば話は別である。

文久2年3月24日(1862)、竜馬は、新生日本の夜明けを迎えるべく、土佐藩脱藩の決行をするにあたり、坂本家守護神の高知市神田の和霊神社に無事、加護を祈り、水杯をもって、決別の覚悟を秘めた。

ただ、龍馬が脱藩以前に、本社といえる宇和島の和霊神社に参拝したか否かは定かではないという。

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宇和島駅に戻り、松山行きの各駅停車を待つ。
目的地の卯之町には特急も停まるのだが、各駅停車でも40分程度。それならば各駅で卯之町へ行き、そこから松山までは特急で戻ると決めていた。

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一両編成のローカル線である。この日も暑かったので、冷房が効いている車両が心地よかった。
見回すと、乗客は私を含めて4名だけ。そのうちのひとりが、独特の装束に身を包んだお遍路さん。
ここは四国なのだと、実感した。

12時16分、列車はゆっくりと動き始めた。
卯之町はどんなところなのだろう。車窓から宇和島が去ってゆく。
でも私の中では、寂しい気持ちよりも、未知の町への興味が勝っていた。

【「宇和島へ」了、2019年10月7日6:43】

# by kreis_kraft | 2019-09-12 12:00 | 旅行

宇和島へ(その3)

カーテンを閉め切ったホテルの部屋で、目を覚ましたのが17時半。
いい感じで疲れが抜けているのに満足し、外を伺ってみるとまだ明るい。
そこで、夕食に出かけるまでの間、ホテルの周辺を歩き回ってみることにした。実は、場所を確認しておかなければならない、吉村昭行きつけのうどん屋さんがあったからである。

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お店はすぐに見つかった。あらかじめネットで店構えを調べておいて良かったと思った。

家(筆者注:高野長英の隠れ家のこと)の裏手は、辰野川という小さな川になっている。以前は水量が豊かであったというが、水は相変わらず澄んでいる。不思議なうどん屋は、その川の少し下流にある。土地の人が竜光院前という場所で川に面している。
(吉村昭「宇和島の不思議なうどん屋」/『味を追う旅』所収))

確かにお店のほど近くに旧町名を示す碑が立っていて、吉村さんの言葉通り、澄み切った水が静かに瀬音をたてて流れていた。

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宇和島に来るたび吉村さんが通ったこのうどん屋さん、朝が早い勤め人のために営業しているお店で、開けているのは朝5時から9時まで。営業している間、暖簾もかけられていないという、まさに地元に根差したお店なのである。

明日の朝が楽しみだとホクホクしながら一旦ホテルに戻り、夕食時を静かに待つ。
ほどなく、お腹から発せされたゴーサインを受け、満を持して郷土料理を楽しめるというお店へ。
ネットでも高評価、ガイドブックにも載っている「ほづみ亭」。長英の隠れ家前の道の並びにお店を構えている。

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旅先でしか味わえない旨いものをと、まずは「はらんぽのすり身焼き」(500円)。

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じゃこ天のすり身を揚げずに焼いたもの。
じゃこ天は帰りに松山空港の売店でお土産に買うつもりでいたので、ここでは焼いたものを注文したが、揚げたものより私は美味だと思う。外見はつみれと似ているが、こちらは歯を押し返す弾力がある。大根おろしと一緒にいただいてさらに旨みが増す。
「はらんぼ」とは宇和海でとれる「ほたるじゃこ」と呼ばれるスズキ科の小ぶりの魚の地方名とか。

「丸ずし」(450円)

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シャリの代わりにおからを使ったお寿司。この地方では米が貴重だったのでおからを使うようになったとのこと。
一口サイズではあるが、酢でしめたネタの心地よい食感と、舌の上でホロっと広がるおからのそれが微妙に交じり合い、まことに名状しがたい味わい。
私はすっかりうれしくなってしまい、ビールより絶対日本酒が合うと、丸ずしのおかわりと冷酒をオーダー。
その際、この魚は何ですか?と訊いてみたところ「バケラです」と店員さん。
怪訝な顔をしている私に店員さん、こちらではイボダイのことをバケラというんですよとにこやかに説明してくれた。

そして、〆は「鯛めし」(1200円)。

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「鯛めし」については「ほづみ亭」さんのHPの説明をそのまま紹介させていただく。

宇和島郷土料理の中でも、よく知られているのが「宇和島鯛めし」。日振島を拠点としていた伊予水軍が、舟の上で食べたのが始まりとされ、新鮮な鯛の刺身をタレや生卵と混ぜ合わせ、それをまるごと熱々のごはんにかけて食します。生の鯛を使った、宇和島ならではの独特なスタイルの丼料理です。

鯛の刺身と生卵が入っている陶器を観察すると、ほかに海苔とわかめが入っていて、汁をご飯に簡単にかけられるよう、注ぎ口がついている。

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ワクワクしながら十分にかき混ぜ、お櫃に入ったご飯を茶碗に盛り、中味をかけて汁を注ぐ。

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おそるおそる掻き込んで、陶然となった。
これは、単なる「醤油卵かけご飯+鯛の刺身」ではない!
ダシに工夫が凝らされていて、醤油と合わせても鯛の旨みを決して濁していないのである。
加えて鯛の刺身の食感がたまらない。お櫃には茶碗3杯ほどのごはんが入っていたが、気づけば空になっていた。「おかわり自由」とのことだったが、これ以上食べるとなにかと差しさわりがあると、断念。
旅の身でなかったら、迷わずお願いしたと思う。

ちりめんじゃことわかめのお吸い物、お漬物も大変美味しく、大満足。
ここに画像は載せていないが、刺身の盛り合わせもたいそう旨かった。

すっかりいい気分になり、勘定を済ませてお店を出た。
長英の隠れ家を通り過ぎ、小川にかかる橋のたもとで、ふと足を止めた。
すっかり夜の気配が濃くなっても、街灯の明かりがちらちらと映る水面を、静かな瀬音を聴きながら3分ほど眺め、ホテルに戻った。

ベッドに横になって、撮影した画像を順番に見たり、入手したパンフレット類を整理したり、ガイドブックを取り出して明日赴く卯之町の項を読んでいるうちに、あれほどみっしりと昼寝をしたのに、いつしか私は寝入っていた。
【「その4」につづく】

# by kreis_kraft | 2019-09-11 20:30 | 旅行

宇和島へ(その2)

酷暑の中、15分ほど歩いて「天赦園」到着。
宇和島藩7代藩主伊達宗紀が隠居の場所として建造した庭園である。

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庭の規模は大きく、池を中心に石、樹木が巧みに配置されていて、景観は風趣に満ちている。藤の花が見事で、西日をうけた庭は薄紫色にけむっているようにみえた。
(吉村昭「ふぉん・しいほるとの娘」)

「天赦園」を見学したかったのは、ここで「しいほるとの娘」楠本イネ(1827−1903)の娘高子(1852−1938)が、8代藩主伊達宗城臨席のもと、結婚式を挙げた場所だったからである(1867年3月)。
苦難に満ちた人生を送ってきた、まもなく40歳になろうとしていたイネにとって、まさに人生最良の日であったろう。
苦しいことのみ多かったイネが、新しい門出を迎える新郎新婦を、青い目を潤ませて見つめている姿。
目をつぶってそんな美しい場面を想像しようとしたが、ミーンミーンと鳴く蝉の声と、じわんと額に浮かんでは垂れてくる汗に、一分も経たないうちに、こりゃ無理だとあきらめた。
けれども、イネに訪れた数少ない幸せな一瞬を共有できたような心持ちになり、満ち足りた気分で私は庭園をあとにした。

時計を見ると14時を少し回っていた。
宇和島城天守閣を見学して町に下りたら、ちょうどホテルのチェックインが始まる頃だろう。
朝早くに松山を出て長時間バスに揺られ、炎天下の宇和島を歩き回った私、正直シャワーを浴びて昼寝でも、といった気分になっていた。

再びお城沿いの道に戻り、登城口を探しながら歩いていると、立派な銅像がたっている。

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大審院長・児島惟謙(1837-1908)の銅像である。当時の司法のトップとして、大津事件(1891年5月11日)の裁きで司法権の独立を守ったことで知られるこの方も宇和島の出身だったのかと、立ち止まって石碑に目を向ける。

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そういえば吉村さんには、大津事件の前後を描いた「ニコライ遭難」という長編もあった。宇和島に50回以上も取材に訪れたのは、幕末を材にする作品のためだけではなかったのである。
また「ニコライ遭難」を読み返してみようと思いながら、銅像の横から始まる、城への石段に歩みを進めた。

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鬱蒼とした木々の中、石段を歩き坂道を登ること15分、ようやく天守閣にたどり着く。もう膝はガクガクである。

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入口で係員に入場料を払う。結構年配の方である。このおじいさんは毎日仕事でここまで登っているのだろうかと敬服の念が自然と湧き上がってくる。
急な階段を手すりに頼りながら3階上がる。各階に扇風機が稼働していたので大いに助かった。展示物に見向きもせず、とにかく最上階を目指す。

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素晴らしい眺望が、待っていた。
ここで「この景色を見て疲れも吹き飛んだ」と書くべきなのだろうが、カラータイマーの点滅が止まらない。
宇和島城のお勉強もほどほどに、そろりそろりと手すりに頼りながら階段を下り天守閣を退出し、登り以上に石段の多い別の道を下り、ようやく町に出たとき、私は完全にポンコツと化していた。

近くのコンビニで調達したお茶とミニ羊羹でエネルギーを補給し、やっとのことでホテルにたどり着き、汗でぐしょぐちょに濡れているポロシャツと下着を剥ぎ取りシャワーを浴び、身体を拭いてベッドに横になったとほぼ同時に、私は眠りに落ちていた。
【「その3」につづく】

# by kreis_kraft | 2019-09-11 15:30 | 旅行

宇和島へ(その1)

9月11日(火)宇和島へ行った。
前日、松山に赴任した親戚を訪ね、せっかく愛媛に来たのだからと、かねてから関心を抱いていたこの町に足を伸ばしたのである。

松山から宇和島までは特急列車で1時間20分くらいかかる。車窓からの景色は帰りに楽しむとして往きはバスを使った。
松山市駅前から1時間に1本出ている宇和島自動車のバスに乗り込んだのが、朝の8時45分。途中高速道路を走ったとはいえ、到着まで2時間15分かかった。同じ愛媛県内とはいえ、やはりそれなりに時間がかかるというのが宇和島駅前に降り立っての感想。

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時刻表に載っている予定到着時刻は9時44分。
15分程度の遅れは、途中、工事をしている区間が複数あったからである。
「平成30年7月豪雨」の復旧工事はまだ続いているのかもしれないと考えたりした。

しかし、それにしても暑い。信号待ちをしている間も日陰を探してしまうほどの暑さである。
駅構内の観光案内ブースで地図をもらい、炎天下のもと、この日の昼ご飯はココと決めていたお店を目指す。

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1887年(明治10年)創業という「菊屋」。
地味な店構えだが、汗をふきふき暖簾をくぐると、開店早々というのに店内はほぼ満員である。
客の大半がオーダーするという「ちゃんぽん」の中(972円)を注文。

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その量に、思わずたじろぐ。
「小」でもよかったかもしれないと思いつつスープをすすると、いりこダシの効いたスープに野菜の甘みが混じり、まことにいいお味。
中太麺の案配もよろしく、ふんだんに載った具もすんなり胃におさまってしまった。
大満足でお勘定を済ませてお店を出ると行列ができている。さすがは宇和島一の評判店だけあると感心。

かくして、燃料補給は終わった。
ガソリン満タンとなった私、この町に来た一番の目的の場所に向かい、汗を拭いながら歩き始める。
といっても、お店から歩いて5分もかからないところに、その場所はある。

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「高野長英の隠れ家」である。
江戸時代の蘭学者・高野長英(1804- 1850)については、吉村昭「長英逃亡」(上下、新潮文庫)をぜひお読みいただきたい。
幕府の対外政策を批判したかどで囚われの身になった高野長英が、獄舎の火災に乗じて脱獄を果たし、約6年4ヵ月の間、幕府の探索をかいくぐり逃亡を続けた一部始終は、吉村さんの綿密な取材と歴史考証により「長英逃亡」という小説に結実した。
吉村昭(1927- 2006)の大ファンである私、その作品を愛読するキッカケとなったのが「長英逃亡」。ページをめくるのももどかしいような小説に出会えるのはめったにないが、「長英逃亡」はそんな作品である。江戸から明治への時代の移り変わりを見事に伝える歴史小説というだけでなく、追われる者の心情を余すところなく描いたサスペンスドラマとしても、超一級の作品である。
その吉村さん、取材等で宇和島を50回以上訪問したという。そして、この町に魅せされていることを、エッセイで繰り返し書いている。
今回私が宇和島に出向いたのも、高野長英だけでなく、長英の心情や息遣いを見事によみがえらせた吉村昭の足跡を偲びたいと思ってのことだった。

いかにもお尋ね者の長英が潜居するにふさわしい家で、もし捕吏にふみ込まれたら、流れの浅い川にとびおり、水を蹴散らしながら川を伝って逃げればよい、などと想像した。
(吉村昭「高野長英の逃亡」/『史実を歩く』所収)


確かに、建物の裏手には小川が流れている。川に向かって少し張り出した家がそれである。

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この場所に、長英は1848年4月から翌49年2月まで身を置き、兵書の翻訳に従事し、宇和島藩の英才たちに蘭学を教授した。
ここで過ごした約10ヵ月間は、良き理解者であった宇和島8代藩主伊達宗城(1818- 1892)の庇護のもと、追われる日々の中でも比較的おだやかな生活を送ることができた時期だったかもしれない。
いや、そうであったと思いたい。

10分ほど歩いて、港に出てみた。
離島フェリーが出航を待っているらしく、規則的なエンジン音が響いている。

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行き先はどこだろうと目を凝らしてみると「日振⇔宇和島」。ヒブリ?どこかで聞いたことがある名前だと切符売り場まで行って確認したところ、日振島。
ここでようやく、日本史の教科書に載っていた東の平将門、西の藤原純友が起こした、平安時代中期の反乱に思い至った。
日振島は藤原純友の本拠地だった島。この島を根城として瀬戸内海の海賊を束ね、中央に対して叛旗をひるがえしたのが「藤原純友の乱」。
中学生の頃、なぜ公家の藤原の姓を持つのに反逆の徒となったのかえらく不思議に思ったものだが、今はその人となりと本拠の島が興味深い。短時間で行くことができるならフェリーに乗ろうとも考えたが、往復に4時間以上もかかってしまうので断念した。

日振島訪問は次回訪問時にと固く誓い、港を背にして再び町中へ。
時計を見ると、13時半すこし前。気温はますます上がっている。
まだまだこれからと自分を叱咤激励し、城跡の木々を左に見ながら、私はひたすら「天赦園」を目指して歩みを進めた。
【「その2」につづく】

# by kreis_kraft | 2019-09-11 14:00 | 旅行