「ほっ」と。キャンペーン

ジャズ/FC町田ゼルビア/その他


by kreis_kraft
2010年度の仕事も終了し、アジアカップも日本代表の優勝で幕を閉じ、ようやく落ち着いてものを考えられる状態になった。嬉しい限りである。

* * *

久しぶりにFC町田ゼルビア関連のエントリを。
タイトル通り、新入団の外国人選手について、である。

はるばる極東の地にやってきたセルビア人のフットボーラー、それもJFLのクラブでプレーするためにやってきたとあらば、関心をそそられるではないか。
加えて、ランコ・ポポヴィッチ新監督ともども、あのコソボの出身。
どんな選手なのか、時間ができたら調べてみようと思っていたのである。

*

ドラガン・ディミッチ(Dragan Dimić)。
1981年10月14日、コソボ社会主義自治州(当時の名称、ユーゴスラビア連邦所属)生まれ。
長らくユーゴスラビア連邦大統領の座にあったヨシップ・ブロズ・チトー大統領が死去したのが1980年5月4日だから、このカリスマ指導者の死から始まった、連邦の動乱の中で生を享けたことになる。

ドイツ語版「ウィキぺディア」の説明文の冒頭は、こうである。

>Dimic, der seit seiner Kindheit in Österreich lebt, begann seine Karriere beim ASC Götzendorf in Niederösterreich.
(http://de.wikipedia.org/wiki/Dragan_Dimic)
「幼い頃からオーストリアで暮らしていたディミッチは、ニーダーエスターライヒ州のASCゲッツェンドルフでキャリアをスタートさせた。」

注目すべきは「幼い頃からオーストリアで暮らしていた」という一節である。家族がいつコソボを離れたのかはわからないが、「ウィキぺディア」中の「コソボ紛争」の記述を読むと、彼が生まれてまもなくかもしれない。
1980年5月4日のチトーの死によって、長期間にわたる政治的不安定が始まり、経済危機と民族主義者の台頭によって状況は次第に悪化していった。コソボで最初に発生した大規模な衝突は1981年3月、アルバニア人の学生が、売店の前の長い行列に対して暴徒化した。これは小規模な衝突であったが、やがてこれが引き金となってコソボ全土に急速に拡大し、各地で大規模なデモが発生するなど、国家的反乱の様相を呈した。
その後のコソボがどんな悲惨な運命をたどったかは、紹介するのもつらいので、このぐらいにしておく。関心をもたれた読者諸氏は、ぜひ「コソボ紛争」の項にお目を通していただきたい。

1985年から1986年にコソボを去ったセルビア人に関する調査書においては「20万人のセルビア人がこの20年間のコソボを去った」といった主張がなされているという。
ディミッチも、そしてその家族も、生まれ故郷を去ることを余儀なくされた20万人にカウントされているのだろう。

私は、機会があれば本人に、何年にオーストリアに移住したのですかと訊いてみたいと思っていたが、そんな考えは今はもう、ない。
なぜなら私の質問が、彼にとって悲しい過去を、思い出させることになるかもしれないから。

*

「ASCゲッツェンドルフ(ASC Götzendorf)」は、ドラガン・ディミッチがプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせたクラブであることは、前に触れた。
しかしドイツ語版「ウィキぺディア」では、このクラブには「2006年まで在籍(bis 2006)」としか記されていない。

---------------

ここで、読者諸氏にお詫びを申し上げたい。
このエントリをアップしたのち、ディミッチ選手は「ASCゲッツェンドルフ」に入団するまで、どのクラブにも属していなかったのか?という疑念が生じてきたのである。
入団は後述の通り22歳のときであることははっきりしているが、それ以前にサッカー選手として修練を積んだクラブがあってもいいようなものである。
「ウィキペディア」の記述を信じるならばそのようなクラブはないのだろうが、このネット上の百科事典、その真偽がときたま話題になることは、よくある。
どうにも落ち着かなくなった私、そういえば「今日のゼルビア」に新入団選手の経歴が載っていたことを思い出した。「2011年1月22日」にある。
ナプレラクワシリェヴォ(セルビア2部) ⇒ ムラドストゴシャ(セルビア3部) ⇒ ゲッツェンドルフ(オーストリア4部) ⇒ オーストリアウィーン(オーストリア2部) ⇒ ホルン(オーストリア2部)
「ASCゲッツェンドルフ」入団前に、セルビアの2クラブの在籍経験があるではないか!
すぐに「今日のゼルビア」の中の方にソースを問い合わせてみたところ、 「新体制発表会で配布されたプレス用の資料がソース」であり、新体制発表会で「ディミッチ選手の入場の際にプロジェクターで映って」いた、このため「公式な経歴」と受け取った、との回答を得た。
むろん「プレス用の資料」作成にあたって、フロントがディミッチ選手に直接経歴を問い合わせたことに疑問の余地はなく、「ウィキペディア」の記述は不完全、そしてそれに基づいて書いた私の文章も誤りということになる。

事実を確かめぬ段階で、こうした記事をアップしたことについて、アクセスして下さった皆様に深くお詫び申し上げたい。
しかし、どうしてこの2クラブが経歴から漏れていたのか、そして「幼い頃からオーストリアで暮らしていた」という「ウィキペディア」の記述は何に基づくのか。
読者諸氏には申し訳ないと思うと同時に、その辺の事情をさらに私は知りたくなった(セルビアのふたつのクラブの探索にもすでに着手している)。
書き手の責任を、以後も調査を進め、報告することで全うしたいと思っている。
【2011年2月3日6時記す】

---------------

いったいディミッチ選手は、いつこのクラブに入団したのだろう?
探索を進めた結果、2004年8月であることが判明した。22歳のときである。
また、在籍は厳密には2007年1月まで、ということもわかった(ソースについては後述)。
彼が入団した当時、「ASCゲッツェンドルフ」というクラブは、オーストリアの7部リーグに所属していた。
(オーストリアのサッカーリーグは9部からなり、6部から9部は完全なアマチュアリーグ。参考サイト
入団後ディミッチ選手はすぐに頭角をあらわしゴールを量産。クラブの6部昇格に貢献し、自身もこの2004/05シーズンの得点王(32点)に輝いている。
翌2005/06シーズンは、2トップの一角として十分な仕事をし、チーム総得点の74点中ふたりで52点を挙げる活躍をみせ、チームは5部に昇格。

こうした働きが注目されたのだろう、続く2006/07シーズンの途中、クリスマスブレイクの間に、1部に所属する「FKオーストリア・ウィーン(FK Austria Wien)」のセカンドチームである2部の「FKオーストリア・アマチュア(FK Austria Amateure)」から半年間の契約の提示を受け移籍、そして2007年5月に契約延長がなされた。
ディミッチ選手は2010年夏まで上記ウィーンのクラブで選手生活を送ることになるのだが、その大部分は「FKオーストリア・アマチュア」のメンバーとして出場したもので、1部の公式戦出場記録は1試合にとどまっている。
それは2008/09シーズンの第13節(08年10月18日)、「FKオーストリア・ウィーン」が5-0で大勝した試合での、後半78分から試合終了までの13分の途中出場。

27歳と4日で彼はついに、オーストリアの「ブンデスリーガー」となったのである。

(前編終わり。後編に続く)

* * *

実は、まだディミッチ選手については書きたいことが残っているので、このエントリのタイトルには前編の意で【前】を付けさせていただきます。
後編は2,3日中にアップ予定。ツィッターやmixi等で更新したとお知らせしますので、関心萌した方はぜひご注目下さい。


なお、ディミッチ選手のパーソナルデータは、「FKオーストリア・ウィーン」の「アーカイヴ」内の「Dragan Dimic」に基づいています。(←クリックしてみて下さい。ディミッチ選手のもっと若き日のお顔を拝見できます。)
このクラブのトップチームに在籍した全選手が紹介されている「選手」ページの右上には「gewidmet dem treuen Austria Anhang(誠実なオーストリアのサポーターに捧ぐ)」とあります。クラブに尽くしてくれた選手たちの貢献を、こうした形で残そうとするクラブの姿勢はまことに好感が持てますし、どんなクラブのサイトにも、こうしたデータページがあるべきだと思いました。


ディミッチ選手が最初に入団したクラブ「ASCゲッツェンドルフ」の公式サイトはこちらです。
彼の活躍についてはサイト内の「年表」に多くを拠っています。
しかし1920年創立といいますから、こんな小さなクラブでも91年の歴史があるのですね。
ヨーロッパサッカーの歴史の深さを感じます。

ちなみに「ASCゲッツェンドルフ」、ディミッチ選手が去ったのち2007/08シーズン終了後に4部に昇格。
現在の2010/11シーズンは前半戦を終了して16チーム中首位に立っています。
次の試合は3月11日(金)。これから後半戦が始まるのでしょうが、果たして3部昇格なるか否か?

書いているうち、妙にこのクラブのことも気になってきました。
試合結果、これからもチェックしていこうと思ってます。
[PR]
# by kreis_kraft | 2011-02-01 12:38 | FC町田ゼルビア

雷鳥が、やって来る

4月25日(日)に私が長く待ち望んでいた試合が、ゼルビアのホーム・野津田でおこなわれる。

「FC町田ゼルビアVS松本山雅FC」(14時キックオフ)

私はかつて「がんばれ、松本山雅!」と題するエントリをアップしたことがあった。
多数の熱狂的なサポーターを持つ松本山雅FC、昨年悲願のJFL昇格を果たし、ついに町田ゼルビアと対戦である。

私にとって松本山雅、久しく気になるクラブであった。
いくたびか昇格目前にして苦汁を嘗め、涙にくれてきたこのクラブ、妙に心の琴線に触れる何かを持っている。
そんなわけで、私はずっとこのチームを応援してきた。
が、対戦相手となると話は別である。


FC町田ゼルビアの選手たちよ、昨季前半自分たちが手ひどく受けたJFLの洗礼を、この新参者たちに浴びせてやれ。
大いに相手をリスペクトすると同時に、観ている私たちの胸を熱くさせてくれるようなプレーで、雷鳥たちを打ち負かせ!

そして私は、松本山雅サポーターに負けない熱意をもって、いつもの倍の声を出すことを、ここに誓う。
負けるな、FC町田ゼルビア!
a0038908_9524790.gif

[PR]
# by kreis_kraft | 2010-04-20 09:58 | FC町田ゼルビア
10月11日(日)、「横濱ジャズプロムナード」に行った。
3年続けての参戦。お目当てはむろん、板橋文夫のステージ。
前半は北浪良佳(vo)、井上陽介(b)とのトリオおよびデュオで、後半はお馴染みの板橋文夫オーケストラ。
特に楽しみにしていたのは、「デューク・エリントン生誕110年記念」と銘打たれた後半。板橋オーケストラがエリントンのナンバーをどのように演奏するのか、期待に胸ふくらませて、いつもの関内大ホールに駆けつけた。板橋さんの演奏を聴いているとやたらとお腹がすくので(私だけか?)、おにぎり3個を買い込んで。


前半のステージで唸らされたのは、ノルウェーの作曲家グリーグの『ペール・ギュント』中の「ソルヴェイグの歌」。
叫びのような北浪良佳のヴォーカル、板橋・井上両名のフリーフォームのプレイが渾然一体となり(私は、時に荒れ狂う北欧神話の英雄たちのことを想起した)、荒々しくはあるけれども、確かに北欧の情感が醸し出されていることに感嘆した。
このような解釈の余地を残す、クラシックの懐の深さを再認識。

前半終了後、板橋さんの演奏を聴くため来浜されているのほほんさんとお目にかかり、ロビーで少々雑談。
昨日ライブハウス「ドルフィー」での板橋オーケストラの演奏は凄かったと聞き、期待いやが上にも高まる。


後半の板橋文夫オーケストラ、メンバーは以下の通り。

板橋文夫(p)、村井祐児(cl)、林栄一(as)、片山広明(ts)、吉田隆一(bs)、福村博(tb)、辰巳光英(tp)、大田恵資(vln)、瀬尾高志(b)、小山彰太・竹村一哲(ds)、外山明(per)
(片山さんのblog「LIVE & DRIVE 日記」に、当日のエントリ&画像があるのでご参照下さい!)

しかし、ノッケから45分以上にわたる「For Duke 2009」には、さすがに面喰った人も多かっただろうと思う。実際、演奏の途中で席を立つ観客もちらほら。板橋オーケストラの流儀を知らず、ただエリントンの名に惹かれて来場された方々はさぞかし、野蛮(?)きわまりない音楽と思われたことだろう。加えて今年は2ドラムで、例年以上に音が身体にずしりと来る。イチゲンさんには辛いだろうなと席を離れる人を横目で見ながら、私はアナーキーなステージを大いに堪能した。
とりわけ、「A列車で行こう」がよかった。古き良き時代の「A列車」ではなく、スピードと爆走感に溢れた「A列車」の演奏になっていて、草葉の陰でエリントン先生もさぞや喜んでいるだろうと考えたら、自然と笑みが浮かんできた。

アンコールは「フォー・ユー」。
昨年聴けなかっただけに、嬉しさひとしお。
終演後、JR関内駅へ向かって歩きながら、やはりラストはこう来なくちゃねと何度も呟く。
冷たい夜風が、興奮で火照った身体に、気持ちよかった。

*

元気をもらおうと横浜に行き、しっかり元気を頂戴して、帰って来た。

還暦を迎えた板橋さんがあれほど活力に溢れているのに、一回り以上年齢の離れた私がしょぼくれていて、どうする?

板橋さんとメンバーの皆さんにも、感謝!

* * *

板橋さんに関するエントリを仕上げたので、最近「YouTube」に上げられた動画をふたつご紹介。
両方ともソロ、そして両方ともガーシュウィンのナンバーです。




[PR]
# by kreis_kraft | 2009-10-18 19:00 | ジャズ

完勝

高崎まで足を運んだ甲斐が、あった。

9月6日(日)、ここ何試合か鳴りを潜めていたFC町田ゼルビアの本領、上州の地で遺憾なく発揮され、対アルテ高崎戦0-3の完勝。
開始早々に先制し相手の出鼻をくじき、さらに追加点を奪い0-2で前半を終えた時点で、私は今日の勝利を確信した。
さらに後半の半ばにダメ押しの3点目が入り、あとはもう、鼻歌交じりの観戦であった。

こんな気楽に、プレーを楽しむことができたのは、いつ以来だろう?
私は久しぶりに、地域リーグで「向かうところ敵なし」状態だった昨年度のゼルビアを思い出した。

それにしても、御給選手が入っただけで、こんなに変わるものだろうか?
天皇杯の対明治大学戦の敗戦のあと、立て直す時間があったといえども、意思の統一が見えず、混迷の度を深めていたかのように見えたチームとは別物のよう。
まさに、貧血気味で始終青白い顔をしていた人間が、血液の循環が良くなり健康体に戻った…といった感じである。

そんな印象を受けたのも、パスがスムーズに繋がっていたから、だろうと思う。
そしてパスひとつひとつに、戦略的意図が感じられた。
敵が攻めてこないと見るや最終ラインでボールを回すシーンが何度か見られたが、それは明らかに「パスの出しどころがないから仕方なく」のパスではなく、ジリジリとした相手をおびき寄せスペースを作り出すためであった。

ディフェンスラインだけではなく、どのパスにも意味が感じられた。
それは、パスサッカーを志向するチームの生命力が甦って来たことを予感させる、まことに良き傾向と、私には思えた。
チームが同じ方向を向いている証し、なのだから。

御給選手と飯塚選手の同時起用も納得。どっしりと構える大きな御給選手の周囲に運動量の多い小兵の飯塚選手を置く布陣に妙味があった。
ベンチを温めることが多かった雑賀・齋藤両選手のプレーも秀逸。最終ラインを統率した雑賀選手のヘッドの強さは相変わらずだったし、3点目の基点となった齋藤選手の突破と折り返しは本当に見事だった。



出場停止の森川・深津両選手とも、うかうかしてはいられない、といった気持ちになったのではあるまいか。


しかし敵地での勝利の味は、格別である。
大挙して敵地に乗り込んだ私たちサポーター、大満足であった。
[PR]
# by kreis_kraft | 2009-09-08 11:17 | FC町田ゼルビア
7月19日、対ガイナーレ鳥取戦、激戦の末1-0の勝利。

終了後、殊勲のゴールを決めた森川選手が晴れやかな表情でヒーローインタビューを受けているうしろで、勝利の立役者のひとりであるGK修行智仁選手が、端正な顔を歪め、何度もタオルで目のあたりをぬぐっている。
感極まって泣いているのだと気が付いた瞬間、私は胸が締めつけられるような気分にとらわれ、改めてこの一戦の重要性が、とてつもない重圧となって、彼の身体にのしかかっていたのだと、思わず目頭が熱くなった。

*

「7.19町田倍増計画」キャンペーンが功を奏し、野津田に3861名という史上最多の観客を集めたこの試合、FC町田ゼルビアは、さまざまな意味で、勝利を求められていた。
もしここで一敗地にまみれるようなことがあったら、悲願であるJリーグ昇格への道は、かなり、遠のく。
後半折り返しての2連勝の意義も薄れ、上位には通用しないのかという懐疑心も頭をもたげてくる。
そして、「なんやら大がかりに宣伝しているようだしちょっとスタジアムに足を運んでみようか」と、サッカーやゼルビアに特別な思い入れも持たず野津田にやってきた方々は、目の前で負けたとなれば、「なんだこの程度のチームなのか」と、たちまちソッポを向いてしまうかもしれない。

絶対に、勝たなくてはならなかったのだ。

修行選手の涙はむろん、かつて在籍したガイナーレ鳥取を倒した喜びにも因るだろう。
だが私には「喜び」よりも、90分間不断の緊張を強いられ、常人には想像もできない重圧からようやく解放された安堵感ゆえ、と思えてならない。

幾度となく危機にさらされながら、文字通りゴールを死守した修行選手の試合後の姿に、脳裏にさまざまな想念が浮かんでは、消えた。

*

この勝利の価値は、計り知れないものがある。
加えて、最大級の重圧の中で結果を出した選手たちは、さらなる自信を持って以降の試合に臨めるようになるだろうと、私は信じて疑わない。

「7.19町田倍増計画」は、成功裡に終わった。一サポーターとして、私も安堵感に包まれている。
が、当然のことながら、これからも「倍増計画」は続くのである。


今後も、観る者の胸を熱くする闘いを!
そして、勝利を!>FC町田ゼルビアの選手の皆様


a0038908_271986.jpg

[PR]
# by kreis_kraft | 2009-07-20 01:50 | FC町田ゼルビア