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ドイツに出張することは、3月初めに決めていた。
航空券を手配したのが5日。21日出発29日帰国の日程を組んだ。

考えてみれば06年6月のW杯観戦のため渡独して以来、約4年9ヶ月ぶりのドイツ。
一週間と少しの滞在中、クリアしなければならない懸案はいくつかあったが、それを片付けてしまえば、久しぶりのかの地も楽しめると、心弾む思いで出発の準備を進めていたのである。

*

3月11日(金)に実家に出向いていたのも、母からスーツケースを借りるためだった。
足の具合が遅々として良くならない母を、その日の午前中も整骨院に連れて行き、一緒に昼ご飯を食べ、スーツケースの使い方を聞き、ちょっとお茶でも飲もうかねと母が台所へ向かった2時46分、あの忌まわしい揺れがやってきた。

直後に、妻から無事を知らせるメール来着。娘は風邪をひいて学校を休み、妻が面倒をみていた。ふたりは一緒にいる。とりあえず、安堵した。
青ざめた母とふたり実家を点検。家具は異常なし。ただ、テレビがつかない。電気が止まっている。ラジオを取り出してきて、聞いた。
アナウンサーが上ずった声で、海岸のそばにいる方は津波にご注意下さいと繰り返していた。

今夜はここに泊まるからと母に言い残し、自転車で自宅に向かった。玄関のドアを開けると、お父さんこわかったよと娘が抱きついてきた。妻も駆け寄ってきて、3人でひとかたまりになり、しばらく動けなかった。

*

翌朝、電気が復旧した実家で、被災地の惨状を伝える報道番組を観て、我が目を疑った。
何回も繰り返される、津波が町や村を呑み込んでいく映像に、眩暈を覚えた。
一緒にテレビを見つめていた母が、悲しそうに、何度も首を振った。


出発の当日まで、はたしてこんな状況の日本を離れていいのか悩んだ。
妻が、お仕事なんだから行った方がいいわよ、私たちは大丈夫だからと言ってくれたが、それからもさんざん迷った挙句、行くことにした。


フランクフルト空港に到着してすぐ、長時間のフライトで疲れ切った私を、いきなり重要な用件が待っていた。
寝不足でうまく口が回らないところもあったが、なんとか決着をつけ、会食を終えてからホテルに戻って泥のように眠った。
夜明け前に目が覚めてしまい、客が自由に使えるデスクトップを使い、母と妻にメールを送った。

それ以降はもっぱら視察。おおむね順調に予定を消化した。
あちこち歩き回っている間は、心配ごとも、つかのまではあったが、忘れられた。

*

3月25日(金)午後のことだった。
その日の仕事を午前中で済ませてしまっていた私は、このくらいの息抜きは許されるだろうと、近郊のワイン村へ出かけた。宿泊していたホテル前の停留所から、20分もバスに揺られれば着くのである。
私にとって、ドイツといえば白ワイン。せっかく現地に来たのだから飲まない手はない。頑張った自分へのご褒美として、ちょっとぐらい楽しんでもバチは当たるまい、と考えてのこと。

バスは、学校帰りの子供たちでごった返していた。が、バスが停まるごとに、車内の人数は減ってゆく。
次第に田園の気配が濃くなり、いつしか走るバスの左側に葡萄畑、右側に、川。
岡の斜面に整然と植えられた葡萄の木はどれも低く、実はもとより葉もついていないその姿は、頭をもたげた大蛇を想起させる。
川は日を浴びてきらきらと水面を輝かせてはいるものの、まだどこか春の気配を漂わせるのをためらっている風情があった。

村の入口が近づき、ここで子供たちがどっと降り、細い道がうねうねと続く村の中心部らしき場所にさしかかったときは、車内に4,5人が残るだけになっていた。
葡萄畑がある以外、何も変哲もない村だ、とバスの中で思った。
こんな風景は、ざらにある。こんな田舎の村は、ちょっと町中を離れれば、いたるところにある。

そんなことをぼんやり考えていたとき、いきなり日本の国旗が視界に飛び込んできた。

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その瞬間、私は反射的に降車ボタンを押していた。
次の停留所で、転がるようにバスを降り、私は来た方向を逆に駆け出した。

* * *

旗の前で息を整えるのに、時間がかかった。
顔をあげてひとつ深呼吸をし、改めて日本の国旗と、画用紙のメッセージに目を向けた。

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WIR HELFEN JAPAN(ヴィア・ヘルフェン・ヤーパン).
「私たちは日本を助ける」もしくは「私たちは日本を助けている」。
ドイツ語にははっきりとした現在進行形がないので、どちらの意味かは、わからない。
でも、このとき、私は文の意味など、考えたりしなかった。
遠く離れたドイツで、日本の惨状に胸を痛めている人がいて、あなたたちはひとりじゃないと、こういう形でメッセージを発しているのだと思った以外のことは、何も思い浮かばなかった。

幼稚園の門の前に立ちつくし、日の丸を眺めているうちに、目頭が熱くなってきたが、なんとか、持ちこたえた。
小さな村の昼下がり、静まり返った村の道を歩む人はなく、幼稚園の前で涙をこらえている姿を誰にも見られなかったことに、少し安堵した。
そしてのろのろと、目星をつけておいたワイナリーに向かって歩き出した。

*

その夜は、泥酔した。
ワイナリーで試飲した辛口の白が思った以上に美味しく、店の方もどんどん瓶を出してテイスティングをすすめてくるので、すっかりいい気分になって飲みすぎた。
気がつけば、これで何も買わずに帰るというのはいくらなんでもないだろうというくらいテーブル一杯にボトルが並び、当初の予定では1本だったが、あのメッセージに対する謝意も込めて、と勝手な理屈をつけて、結局2本購入しホテルに戻ったのである。
が、買ってきても、スーツケースを持っていなかったので、滞在中に飲まなければならない。液体物の機内持ち込みは、空港免税店で購入したもの以外は禁じられている。
試飲の酔いが残っていることもあったのだろう、こうなりゃ1本空けてやれと思い、ツマミもなしにぐいぐい飲っているうちに、収拾のつかないことになってしまった。

*

翌朝、二日酔いでズキズキする頭を抱え、小包を出すため駅前の郵便局へ行こうとホテルを出てすぐ、原子力発電所の停止を訴えるデモの参加者とすれ違った。

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街なかで「FUKUSHIMA」と見るたびに、私は切ない気分になったものだった。
父母の故郷が、人類が存在する限り、チェルノブイリ、スリーマイルのように、その名が負のイメージで語られることになるのが、やるせない。

それはともかく、真剣に原子力発電の危険性を考え、土曜日にもかかわらず朝からデモに参加するためこの街にやってきた方々に、声をかけられたらどうしようと、私は不安でたまらなかった。加えてこの日本人、二日酔いで青白い顔をし、酒臭い息を吐いている。それだけで眉をひそめられても仕方ないのに、その生まれ故郷がFUKUSHIMAと知ったら、不謹慎だと袋叩きに遭うかもしれない。

まったくこれじゃ参加者の方々にあわせる顔がないと、駅へは裏道を選んだ。


その夜のニュース番組で、ドイツの主要4都市(ベルリン、ハンブルク、ケルン、ミュンヘン)で行われた反原発デモに20万人を超える人びとが集まったと報じられた。
あの、黄色いお日さまの上に、「FUKUSHIMAは警告する」と描かれた旗が、どの街でもひるがえっていた。

*

翌日から、帰り支度を始めた。
28日(月)フランクフルト空港に正午には着いていなければならない。
そこから逆算して、乗る列車を決めた。10時半に出る特急である。切符は前日に買っておいた。

仕事はほぼ完璧に終えた。土産物はすでに買ってある。
あとは荷造りするだけだ。
しかし、何かやり残したことがあるような気がしてならない。

デジカメを取り出し、ドイツに来てから撮影した画像を、順を追って見てみた。
幼稚園の前の「WIR HELFEN JAPAN」で、画像を送る手が止まった。

あのとき幼稚園の門は開いてはいた。誰かが中にいたのかもしれない。
が、日の丸とメッセージがあまりに唐突だったので、訪問するなどつゆほども考えなかったのである。

そういえば、と私は思った。
母から預かってきた、切り絵の色紙が残っている。
どなたかドイツの方と面識を得たら、これをおみやげとして渡しなさいと母が私に持たせたのは、着物を着た童女の切り絵であった(オリジナルを撮影するのを忘れていた。こんな絵柄である)。

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眺めているうちに、これを進呈するのはあの幼稚園の子供たちをおいて他にないと思い立ち、時間が経つうちにそれは確信へと変わっていった。

出発の朝、早く起きてあの幼稚園へ行き、母の色紙を渡して戻っても、列車に乗るまで時間は十分にある。

行こう。
もう一度、あの村へ。

そう決めたら妙に心が軽くなり、残っていたもう1本のワインに、いつしか手が伸びていた。

* * *

夜の気配がいたるところに残っている時分に、街を走り出て村に向かうバスには、私以外だれも乗っていなかった。
街は静まり返り、まだ眠っているようだった。


疾走するバスの中で、これからの予定を考えた。
部屋に、荷造りが終わったトランクが置いてある。チェックアウトさえ済ませば、すぐにでも駅へ行くことができる。
帰りのバスの時間を調べてみたが、数が少ないながらも7時台、8時台に2本は出ている。
一番遅いバスを使ったとしても、ホテルに戻ってゆったり朝食をとっても10時半発の特急には十分間に合うはずだ。
あとは、幼稚園を運営している方にお目にかかり、お礼を申し上げ、母の切り絵を渡すのみ。
子供たちにも会えればいいが、それが叶うには、少し早すぎるだろう。

そんなことを考えているうちに、村の入口の停留所名がアナウンスされた。
私は、降車ボタンを押した。

*

幼稚園が開く時間が7時15分であることはネットで調べて知っていた。
それまで少し時間があったので、停留所のそばのパン屋に入り、サンドイッチとコーヒー。
ドイツのパンもしばらく食べられないなと思ったら、この上なく美味しく感じられた。

パンをゆっくり味わい、コーヒーを飲み干し、時計を見ると7時20分。
さあて、行くかと席を立ったら、いつのまにかうしろの席に坐っていたトラックの運転手らしき人が、不思議そうにこちらを振り返り、私を見つめた。
私は、「さあて、行くか」と声に出していたらしかった。
やはり私、どこか平常心ではなかったのだろう。
びっくりさせてごめんなさい、と運転手さんに謝ると「問題ない、何でもないよ」とにっこり笑って運転手さん。

*

幼稚園の門は、開いていた。
緊張しながら、門をくぐり、玄関への階段を登り、呼び鈴を押した。
すぐに、金髪のおかっぱ頭の、30歳前後の女性がガラス戸のむこうに現れた。
明らかに、突然現れた東洋人に戸惑った表情を浮かべている。
それでも、戸を半分くらい開けてくれた。

頭を下げながら、私は日本人で、つい3日前、門のところにかかっている日本の国旗とプラカードを見た者です、どうしてもお礼が言いたくて来ましたと申し上げたところ、どうぞ中へと招き入れてくれた。

― あの国旗と画用紙の「WIR HELFEN JAPAN」は、子供たちが描いたのですね。

― はい、みんな熱心に描いてくれました。

― 本当に、感激しました。こんな小さな村で日本の国旗を見るとは思いませんでした。「WIR HELFEN JAPAN」という言葉にも。

― これを、見てください。

女性が指差したのは、入口近くのテーブルだった。
その上に皿やボウルが無造作に重ねられている。

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― 子供たちは、これを使ってパンを作っているんです。

あまりに唐突すぎる言葉に、最初、私は彼女が何を言いたいのか、わからなかった。
パンを作っている?
私の戸惑いを察したのか、彼女は言葉を継いだ。

― 私たちは子供たちに「大変な状況にある日本の人たちのために何ができると思う?」と訊ねました。

私は一言も聞きもらすまいと、全神経を耳に集中させた。

― 子供たちから多くの案が出されました。その中で「パンを作ってバザーに出し、収益金を日本に送る」という案に賛成が集まり、私たちは実行に移すことにしたのです。

ここで彼女はにっこりと笑った。

― もう100ユーロ近く、集まったんですよ。


もう、私の涙腺は、持ちこたえられなかった。
子供たちが目の前にある容器を使い、小さな手で懸命にパン生地をこねている姿を想像しただけで一挙に涙が溢れ出し、携帯を取り出して、電話が来ましたごめんなさいすぐに戻ってきますと嘘をつき、小走りで門の外に出て、私は声を上げて泣いた。


私の両親は、ともに福島県出身、それも浜通りの出身である。
地震直後、父の実家のある小さな漁村は津波に襲われ、家屋は流され、父の妹である叔母と従兄の安否はしばらく確認できなかった。
村は壊滅状態となり、渡独する時点で1000人近い行方不明者がいると報じられ、津波にさらわれた人びとを捜索しようにも、村が原発から半径10km以内にも満たないほど間近に位置していたため、だれも立ち入ることが禁じられ、被害の実情さえわからない状態であった。
また、私が産まれた母の実家は海からかなり離れた山の方だが、父の実家よりも原発に近い。むろん避難命令が出たエリアに含まれ、その周囲はゴーストタウンと化している。

縁ある土地が天災によって破壊されただけでなく、放射能の脅威に晒されている。
私の在所の人びとの多くが、こうした二重の苦しみにあえいでいる。
そんな中、日本を離れた私は、どこかうしろめたい気持ちにとらわれながらも、今はただ仕事に集中しようと自らに言い聞かせ、両親の故郷のことを極力考えないようにしていたのだった。


だが、それももう限界だった。
今までずっと耐えてきた分だろうか、とめどなく溢れる涙はなかなか止まらず、しばらくの間、私はその場にうずくまり、ただ涙が流れるままにまかせていた。

*

― 写真を撮ってよろしいですか?日本で、できる限り多くの人に見せたいんです。ドイツの小さな村の幼稚園が、日本のためにこんな活動をしてくれていることを、たくさんの人に知ってもらうために、です。

― ええ、もちろん。子供たちも喜ぶでしょう。ぜひ、お願いします。

― ところで、私からも、お願いがあります。

― 何でしょうか?

私は、母の切り絵を取り出した。

― ささやかなお礼として受け取ってください。私の母の手作りの切り絵です。ひとりの日本人が、きみたちの心のこもった行為に対するお礼としてこれを置いていったと言って、子供たちに見せてあげてください。

これは素敵ですねと言ったあと、にこやかに女性は絵を受け取ってくれた。
私は言葉を続けた。

― そしてこう伝えてください。きみたちの真心は、私たちを癒す力となり、再建への力になるでしょう、と。

― わかりました。必ず伝えます。

― ありがとうございます。それでは、もう行かなくてはなりません。実はこれから、日本行きの飛行機に乗ることになっていて。

無事の帰着をお祈りしますと言いながら、女性は私に手を差し出した。
私はその手を強く握りしめた。

― あなたの国は大変な困難に襲われていますが、すべて良かれと心から念じています。神のご加護がありますように。

* * *

帰国翌日の30日昼下がり、私は、母の家にいた。
土産物を渡したあと、画像を見せながら、帰国の朝、幼稚園を訪ねた話をした。

母は黙って私の話を聞いていたが、終わると一呼吸置いて、こう言った。

― それじゃ、その「びぃあ・へるふぇん・やーぱん」って文句は、「私たちは日本を助けています」っていう現在進行の意味だったわけね。

― そうなるね。

― いい子たちねぇ・・・ところで私の切り絵、ちゃんとその子たちに見てもらえたかしら?

― 見てもらえたよ、きっと。今ごろ、教室の壁にでも飾られているんじゃない?


そう言うと母は、そうだったら嬉しいわねと、ちょっと得意そうに、加えてちょっと目を潤ませながら、にっこりと笑った。

<了>
(2011年4月17日22時40分)
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by kreis_kraft | 2011-03-31 23:59 | 日記