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ドイツに出張することは、3月初めに決めていた。
航空券を手配したのが5日。21日出発29日帰国の日程を組んだ。

考えてみれば06年6月のW杯観戦のため渡独して以来、約4年9ヶ月ぶりのドイツ。
一週間と少しの滞在中、クリアしなければならない懸案はいくつかあったが、それを片付けてしまえば、久しぶりのかの地も楽しめると、心弾む思いで出発の準備を進めていたのである。

*

3月11日(金)に実家に出向いていたのも、母からスーツケースを借りるためだった。
足の具合が遅々として良くならない母を、その日の午前中も整骨院に連れて行き、一緒に昼ご飯を食べ、スーツケースの使い方を聞き、ちょっとお茶でも飲もうかねと母が台所へ向かった2時46分、あの忌まわしい揺れがやってきた。

直後に、妻から無事を知らせるメール来着。娘は風邪をひいて学校を休み、妻が面倒をみていた。ふたりは一緒にいる。とりあえず、安堵した。
青ざめた母とふたり実家を点検。家具は異常なし。ただ、テレビがつかない。電気が止まっている。ラジオを取り出してきて、聞いた。
アナウンサーが上ずった声で、海岸のそばにいる方は津波にご注意下さいと繰り返していた。

今夜はここに泊まるからと母に言い残し、自転車で自宅に向かった。玄関のドアを開けると、お父さんこわかったよと娘が抱きついてきた。妻も駆け寄ってきて、3人でひとかたまりになり、しばらく動けなかった。

*

翌朝、電気が復旧した実家で、被災地の惨状を伝える報道番組を観て、我が目を疑った。
何回も繰り返される、津波が町や村を呑み込んでいく映像に、眩暈を覚えた。
一緒にテレビを見つめていた母が、悲しそうに、何度も首を振った。


出発の当日まで、はたしてこんな状況の日本を離れていいのか悩んだ。
妻が、お仕事なんだから行った方がいいわよ、私たちは大丈夫だからと言ってくれたが、それからもさんざん迷った挙句、行くことにした。


フランクフルト空港に到着してすぐ、長時間のフライトで疲れ切った私を、いきなり重要な用件が待っていた。
寝不足でうまく口が回らないところもあったが、なんとか決着をつけ、会食を終えてからホテルに戻って泥のように眠った。
夜明け前に目が覚めてしまい、客が自由に使えるデスクトップを使い、母と妻にメールを送った。

それ以降はもっぱら視察。おおむね順調に予定を消化した。
あちこち歩き回っている間は、心配ごとも、つかのまではあったが、忘れられた。

*

3月25日(金)午後のことだった。
その日の仕事を午前中で済ませてしまっていた私は、このくらいの息抜きは許されるだろうと、近郊のワイン村へ出かけた。宿泊していたホテル前の停留所から、20分もバスに揺られれば着くのである。
私にとって、ドイツといえば白ワイン。せっかく現地に来たのだから飲まない手はない。頑張った自分へのご褒美として、ちょっとぐらい楽しんでもバチは当たるまい、と考えてのこと。

バスは、学校帰りの子供たちでごった返していた。が、バスが停まるごとに、車内の人数は減ってゆく。
次第に田園の気配が濃くなり、いつしか走るバスの左側に葡萄畑、右側に、川。
岡の斜面に整然と植えられた葡萄の木はどれも低く、実はもとより葉もついていないその姿は、頭をもたげた大蛇を想起させる。
川は日を浴びてきらきらと水面を輝かせてはいるものの、まだどこか春の気配を漂わせるのをためらっている風情があった。

村の入口が近づき、ここで子供たちがどっと降り、細い道がうねうねと続く村の中心部らしき場所にさしかかったときは、車内に4,5人が残るだけになっていた。
葡萄畑がある以外、何も変哲もない村だ、とバスの中で思った。
こんな風景は、ざらにある。こんな田舎の村は、ちょっと町中を離れれば、いたるところにある。

そんなことをぼんやり考えていたとき、いきなり日本の国旗が視界に飛び込んできた。

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その瞬間、私は反射的に降車ボタンを押していた。
次の停留所で、転がるようにバスを降り、私は来た方向を逆に駆け出した。

* * *

旗の前で息を整えるのに、時間がかかった。
顔をあげてひとつ深呼吸をし、改めて日本の国旗と、画用紙のメッセージに目を向けた。

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WIR HELFEN JAPAN(ヴィア・ヘルフェン・ヤーパン).
「私たちは日本を助ける」もしくは「私たちは日本を助けている」。
ドイツ語にははっきりとした現在進行形がないので、どちらの意味かは、わからない。
でも、このとき、私は文の意味など、考えたりしなかった。
遠く離れたドイツで、日本の惨状に胸を痛めている人がいて、あなたたちはひとりじゃないと、こういう形でメッセージを発しているのだと思った以外のことは、何も思い浮かばなかった。

幼稚園の門の前に立ちつくし、日の丸を眺めているうちに、目頭が熱くなってきたが、なんとか、持ちこたえた。
小さな村の昼下がり、静まり返った村の道を歩む人はなく、幼稚園の前で涙をこらえている姿を誰にも見られなかったことに、少し安堵した。
そしてのろのろと、目星をつけておいたワイナリーに向かって歩き出した。

*

その夜は、泥酔した。
ワイナリーで試飲した辛口の白が思った以上に美味しく、店の方もどんどん瓶を出してテイスティングをすすめてくるので、すっかりいい気分になって飲みすぎた。
気がつけば、これで何も買わずに帰るというのはいくらなんでもないだろうというくらいテーブル一杯にボトルが並び、当初の予定では1本だったが、あのメッセージに対する謝意も込めて、と勝手な理屈をつけて、結局2本購入しホテルに戻ったのである。
が、買ってきても、スーツケースを持っていなかったので、滞在中に飲まなければならない。液体物の機内持ち込みは、空港免税店で購入したもの以外は禁じられている。
試飲の酔いが残っていることもあったのだろう、こうなりゃ1本空けてやれと思い、ツマミもなしにぐいぐい飲っているうちに、収拾のつかないことになってしまった。

*

翌朝、二日酔いでズキズキする頭を抱え、小包を出すため駅前の郵便局へ行こうとホテルを出てすぐ、原子力発電所の停止を訴えるデモの参加者とすれ違った。

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街なかで「FUKUSHIMA」と見るたびに、私は切ない気分になったものだった。
父母の故郷が、人類が存在する限り、チェルノブイリ、スリーマイルのように、その名が負のイメージで語られることになるのが、やるせない。

それはともかく、真剣に原子力発電の危険性を考え、土曜日にもかかわらず朝からデモに参加するためこの街にやってきた方々に、声をかけられたらどうしようと、私は不安でたまらなかった。加えてこの日本人、二日酔いで青白い顔をし、酒臭い息を吐いている。それだけで眉をひそめられても仕方ないのに、その生まれ故郷がFUKUSHIMAと知ったら、不謹慎だと袋叩きに遭うかもしれない。

まったくこれじゃ参加者の方々にあわせる顔がないと、駅へは裏道を選んだ。


その夜のニュース番組で、ドイツの主要4都市(ベルリン、ハンブルク、ケルン、ミュンヘン)で行われた反原発デモに20万人を超える人びとが集まったと報じられた。
あの、黄色いお日さまの上に、「FUKUSHIMAは警告する」と描かれた旗が、どの街でもひるがえっていた。

*

翌日から、帰り支度を始めた。
28日(月)フランクフルト空港に正午には着いていなければならない。
そこから逆算して、乗る列車を決めた。10時半に出る特急である。切符は前日に買っておいた。

仕事はほぼ完璧に終えた。土産物はすでに買ってある。
あとは荷造りするだけだ。
しかし、何かやり残したことがあるような気がしてならない。

デジカメを取り出し、ドイツに来てから撮影した画像を、順を追って見てみた。
幼稚園の前の「WIR HELFEN JAPAN」で、画像を送る手が止まった。

あのとき幼稚園の門は開いてはいた。誰かが中にいたのかもしれない。
が、日の丸とメッセージがあまりに唐突だったので、訪問するなどつゆほども考えなかったのである。

そういえば、と私は思った。
母から預かってきた、切り絵の色紙が残っている。
どなたかドイツの方と面識を得たら、これをおみやげとして渡しなさいと母が私に持たせたのは、着物を着た童女の切り絵であった(オリジナルを撮影するのを忘れていた。こんな絵柄である)。

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眺めているうちに、これを進呈するのはあの幼稚園の子供たちをおいて他にないと思い立ち、時間が経つうちにそれは確信へと変わっていった。

出発の朝、早く起きてあの幼稚園へ行き、母の色紙を渡して戻っても、列車に乗るまで時間は十分にある。

行こう。
もう一度、あの村へ。

そう決めたら妙に心が軽くなり、残っていたもう1本のワインに、いつしか手が伸びていた。

* * *

夜の気配がいたるところに残っている時分に、街を走り出て村に向かうバスには、私以外だれも乗っていなかった。
街は静まり返り、まだ眠っているようだった。


疾走するバスの中で、これからの予定を考えた。
部屋に、荷造りが終わったトランクが置いてある。チェックアウトさえ済ませば、すぐにでも駅へ行くことができる。
帰りのバスの時間を調べてみたが、数が少ないながらも7時台、8時台に2本は出ている。
一番遅いバスを使ったとしても、ホテルに戻ってゆったり朝食をとっても10時半発の特急には十分間に合うはずだ。
あとは、幼稚園を運営している方にお目にかかり、お礼を申し上げ、母の切り絵を渡すのみ。
子供たちにも会えればいいが、それが叶うには、少し早すぎるだろう。

そんなことを考えているうちに、村の入口の停留所名がアナウンスされた。
私は、降車ボタンを押した。

*

幼稚園が開く時間が7時15分であることはネットで調べて知っていた。
それまで少し時間があったので、停留所のそばのパン屋に入り、サンドイッチとコーヒー。
ドイツのパンもしばらく食べられないなと思ったら、この上なく美味しく感じられた。

パンをゆっくり味わい、コーヒーを飲み干し、時計を見ると7時20分。
さあて、行くかと席を立ったら、いつのまにかうしろの席に坐っていたトラックの運転手らしき人が、不思議そうにこちらを振り返り、私を見つめた。
私は、「さあて、行くか」と声に出していたらしかった。
やはり私、どこか平常心ではなかったのだろう。
びっくりさせてごめんなさい、と運転手さんに謝ると「問題ない、何でもないよ」とにっこり笑って運転手さん。

*

幼稚園の門は、開いていた。
緊張しながら、門をくぐり、玄関への階段を登り、呼び鈴を押した。
すぐに、金髪のおかっぱ頭の、30歳前後の女性がガラス戸のむこうに現れた。
明らかに、突然現れた東洋人に戸惑った表情を浮かべている。
それでも、戸を半分くらい開けてくれた。

頭を下げながら、私は日本人で、つい3日前、門のところにかかっている日本の国旗とプラカードを見た者です、どうしてもお礼が言いたくて来ましたと申し上げたところ、どうぞ中へと招き入れてくれた。

― あの国旗と画用紙の「WIR HELFEN JAPAN」は、子供たちが描いたのですね。

― はい、みんな熱心に描いてくれました。

― 本当に、感激しました。こんな小さな村で日本の国旗を見るとは思いませんでした。「WIR HELFEN JAPAN」という言葉にも。

― これを、見てください。

女性が指差したのは、入口近くのテーブルだった。
その上に皿やボウルが無造作に重ねられている。

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― 子供たちは、これを使ってパンを作っているんです。

あまりに唐突すぎる言葉に、最初、私は彼女が何を言いたいのか、わからなかった。
パンを作っている?
私の戸惑いを察したのか、彼女は言葉を継いだ。

― 私たちは子供たちに「大変な状況にある日本の人たちのために何ができると思う?」と訊ねました。

私は一言も聞きもらすまいと、全神経を耳に集中させた。

― 子供たちから多くの案が出されました。その中で「パンを作ってバザーに出し、収益金を日本に送る」という案に賛成が集まり、私たちは実行に移すことにしたのです。

ここで彼女はにっこりと笑った。

― もう100ユーロ近く、集まったんですよ。


もう、私の涙腺は、持ちこたえられなかった。
子供たちが目の前にある容器を使い、小さな手で懸命にパン生地をこねている姿を想像しただけで一挙に涙が溢れ出し、携帯を取り出して、電話が来ましたごめんなさいすぐに戻ってきますと嘘をつき、小走りで門の外に出て、私は声を上げて泣いた。


私の両親は、ともに福島県出身、それも浜通りの出身である。
地震直後、父の実家のある小さな漁村は津波に襲われ、家屋は流され、父の妹である叔母と従兄の安否はしばらく確認できなかった。
村は壊滅状態となり、渡独する時点で1000人近い行方不明者がいると報じられ、津波にさらわれた人びとを捜索しようにも、村が原発から半径10km以内にも満たないほど間近に位置していたため、だれも立ち入ることが禁じられ、被害の実情さえわからない状態であった。
また、私が産まれた母の実家は海からかなり離れた山の方だが、父の実家よりも原発に近い。むろん避難命令が出たエリアに含まれ、その周囲はゴーストタウンと化している。

縁ある土地が天災によって破壊されただけでなく、放射能の脅威に晒されている。
私の在所の人びとの多くが、こうした二重の苦しみにあえいでいる。
そんな中、日本を離れた私は、どこかうしろめたい気持ちにとらわれながらも、今はただ仕事に集中しようと自らに言い聞かせ、両親の故郷のことを極力考えないようにしていたのだった。


だが、それももう限界だった。
今までずっと耐えてきた分だろうか、とめどなく溢れる涙はなかなか止まらず、しばらくの間、私はその場にうずくまり、ただ涙が流れるままにまかせていた。

*

― 写真を撮ってよろしいですか?日本で、できる限り多くの人に見せたいんです。ドイツの小さな村の幼稚園が、日本のためにこんな活動をしてくれていることを、たくさんの人に知ってもらうために、です。

― ええ、もちろん。子供たちも喜ぶでしょう。ぜひ、お願いします。

― ところで、私からも、お願いがあります。

― 何でしょうか?

私は、母の切り絵を取り出した。

― ささやかなお礼として受け取ってください。私の母の手作りの切り絵です。ひとりの日本人が、きみたちの心のこもった行為に対するお礼としてこれを置いていったと言って、子供たちに見せてあげてください。

これは素敵ですねと言ったあと、にこやかに女性は絵を受け取ってくれた。
私は言葉を続けた。

― そしてこう伝えてください。きみたちの真心は、私たちを癒す力となり、再建への力になるでしょう、と。

― わかりました。必ず伝えます。

― ありがとうございます。それでは、もう行かなくてはなりません。実はこれから、日本行きの飛行機に乗ることになっていて。

無事の帰着をお祈りしますと言いながら、女性は私に手を差し出した。
私はその手を強く握りしめた。

― あなたの国は大変な困難に襲われていますが、すべて良かれと心から念じています。神のご加護がありますように。

* * *

帰国翌日の30日昼下がり、私は、母の家にいた。
土産物を渡したあと、画像を見せながら、帰国の朝、幼稚園を訪ねた話をした。

母は黙って私の話を聞いていたが、終わると一呼吸置いて、こう言った。

― それじゃ、その「びぃあ・へるふぇん・やーぱん」って文句は、「私たちは日本を助けています」っていう現在進行の意味だったわけね。

― そうなるね。

― いい子たちねぇ・・・ところで私の切り絵、ちゃんとその子たちに見てもらえたかしら?

― 見てもらえたよ、きっと。今ごろ、教室の壁にでも飾られているんじゃない?


そう言うと母は、そうだったら嬉しいわねと、ちょっと得意そうに、加えてちょっと目を潤ませながら、にっこりと笑った。

<了>
(2011年4月17日22時40分)
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# by kreis_kraft | 2011-03-31 23:59 | 日記
10月11日(日)、「横濱ジャズプロムナード」に行った。
3年続けての参戦。お目当てはむろん、板橋文夫のステージ。
前半は北浪良佳(vo)、井上陽介(b)とのトリオおよびデュオで、後半はお馴染みの板橋文夫オーケストラ。
特に楽しみにしていたのは、「デューク・エリントン生誕110年記念」と銘打たれた後半。板橋オーケストラがエリントンのナンバーをどのように演奏するのか、期待に胸ふくらませて、いつもの関内大ホールに駆けつけた。板橋さんの演奏を聴いているとやたらとお腹がすくので(私だけか?)、おにぎり3個を買い込んで。


前半のステージで唸らされたのは、ノルウェーの作曲家グリーグの『ペール・ギュント』中の「ソルヴェイグの歌」。
叫びのような北浪良佳のヴォーカル、板橋・井上両名のフリーフォームのプレイが渾然一体となり(私は、時に荒れ狂う北欧神話の英雄たちのことを想起した)、荒々しくはあるけれども、確かに北欧の情感が醸し出されていることに感嘆した。
このような解釈の余地を残す、クラシックの懐の深さを再認識。

前半終了後、板橋さんの演奏を聴くため来浜されているのほほんさんとお目にかかり、ロビーで少々雑談。
昨日ライブハウス「ドルフィー」での板橋オーケストラの演奏は凄かったと聞き、期待いやが上にも高まる。


後半の板橋文夫オーケストラ、メンバーは以下の通り。

板橋文夫(p)、村井祐児(cl)、林栄一(as)、片山広明(ts)、吉田隆一(bs)、福村博(tb)、辰巳光英(tp)、大田恵資(vln)、瀬尾高志(b)、小山彰太・竹村一哲(ds)、外山明(per)
(片山さんのblog「LIVE & DRIVE 日記」に、当日のエントリ&画像があるのでご参照下さい!)

しかし、ノッケから45分以上にわたる「For Duke 2009」には、さすがに面喰った人も多かっただろうと思う。実際、演奏の途中で席を立つ観客もちらほら。板橋オーケストラの流儀を知らず、ただエリントンの名に惹かれて来場された方々はさぞかし、野蛮(?)きわまりない音楽と思われたことだろう。加えて今年は2ドラムで、例年以上に音が身体にずしりと来る。イチゲンさんには辛いだろうなと席を離れる人を横目で見ながら、私はアナーキーなステージを大いに堪能した。
とりわけ、「A列車で行こう」がよかった。古き良き時代の「A列車」ではなく、スピードと爆走感に溢れた「A列車」の演奏になっていて、草葉の陰でエリントン先生もさぞや喜んでいるだろうと考えたら、自然と笑みが浮かんできた。

アンコールは「フォー・ユー」。
昨年聴けなかっただけに、嬉しさひとしお。
終演後、JR関内駅へ向かって歩きながら、やはりラストはこう来なくちゃねと何度も呟く。
冷たい夜風が、興奮で火照った身体に、気持ちよかった。

*

元気をもらおうと横浜に行き、しっかり元気を頂戴して、帰って来た。

還暦を迎えた板橋さんがあれほど活力に溢れているのに、一回り以上年齢の離れた私がしょぼくれていて、どうする?

板橋さんとメンバーの皆さんにも、感謝!

* * *

板橋さんに関するエントリを仕上げたので、最近「YouTube」に上げられた動画をふたつご紹介。
両方ともソロ、そして両方ともガーシュウィンのナンバーです。




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# by kreis_kraft | 2009-10-18 19:00 | ジャズ
「ソロ&ミックス・ダイナマイト・トリオ+1」のステージ終了後も関内大ホールに留まり、「板橋文夫オーケストラ」の開演を待つのは、昨年と同じ。


しかし今年は、インターバル30分の間、九州から板橋さんの演奏を聴きにいらしたのほほんさんと初対面を果たし、しばしロビーでジャズ談義。
のほほんさん、穏やかな語り口が実に印象的な方。かれこれ30年近く板橋さんの演奏に魅せられて来た者同士、初の対面にもかかわらず話題尽きず。

数年前、当時板橋さんのサイトに設けられていた掲示板で、ファンがディスコグラフィーを作成する気運が生まれた時期、私には珍しく、積極的にデータを書き込んでいたことがあったのだが、その時使っていたハンドルを申し上げたところ、ああ、●●さんでしたかと覚えていて下さって、嬉しかった。

残念ながら夜にご予定があるとのことで、終演後に一杯というわけにはいかなかったが、ぜひこちらにお出向きの際は、よろしくお願いしますね!>のほほんさん

*

板橋文夫オーケストラの演奏、19時スタート。

舞台に向かって前列左から、太田恵資(vln)、板橋文夫(p)、村井祐児(cl)、林栄一(as)、片山広明(ts)、中秀仁(b.cl)、田村夏樹(tp)、福村博(tb)と並び、少し下がった位置に井野信義(b)、小山彰太(ds)、外山明(per)。
(片山さんのblog「LIVE & DRIVE 日記」に、当日のエントリ&画像があるのでご参照下さい!)

観るのも聴くのも初めてで少々うろたえた昨年と違って、このオーケストラの「流儀」といったものを知った今年のステージ、昨年披露された曲が何曲も演奏されたこともあり、私は終始落ち着いた気分で、彼らの熱演を受けとめることができたように思う。
相変わらず板橋さんはエネルギッシュで、メンバーたちと作り出す音楽は、聴き手の血を熱くさせる。
それをいっそう煽るのが、言わずとしれた板橋さんの演奏スタイルで、ことにバイオリンの太田さんと丁丁発止と渡り合ったパートがあったが、私、知らず知らずのうちに掌にじっとり汗をかいていて、曲が終わったあとの拍手の際、手を叩いても音が出なかった…こんなことは初めて、だった。
新曲では「サイクリング・ブルース」「ピンク・ロック」が印象に残る。特に前者は親しみやすいテーマ、聴いたばかりだというのに、すぐに覚えることができ、嬉しかったものである。

終演20時45分。
時間の関係上アンコールが聴けなかったことが残念だったものの、精神に入念なマッサージを受けたような心地良さ、しばらく継続。
関内駅へ急ぐ途中の夜の冷気が、気持ちよかった。

*

あの夜から、2週間経った。
たびたび、板橋文夫オーケストラの初の吹き込みとなる『WE 11(ウィ・イレブン)』を聴き返しては、12日のステージのことを思い出し、どう当blogに書こうかと考えてきたが、ようやく書き上げることができそうで、ホッとしている。


ただ、ひとつ最後に記しておきたいことがある。
このオーケストラ、さまざまな楽しみ方ができる、優れた創造集団であることは疑いない。
しかし、どんな卓越したグループであれ、年を経るごとに斬新さは失われ、マンネリに陥ることは避けられないことで、作曲の才に恵まれた板橋さんが、次から次へと素晴らしいオリジナルを書き上げたとしても、常に新鮮なパフォーマンスを披露することができるとは限らないと私は思っている。

かすかに感じた不満を書くと、どんな曲も、途中から同じ調子になっているような気がする。
これは、かつて70年代の山下洋輔トリオの演奏を聴いて感じた不満と非常に似ている。「一本調子」と言ったら語弊があるが…

たとえば私は、「ピンク・ロック」のような曲のあとに、しっとりとしたバラードを聴きたい。それも多彩なホーンひとりひとり、そしてピアノとバイオリンが、じっくり聴かせるようなバラードを、である。こういう演奏を一曲ぐらい入れたとしても、板橋オーケストラの価値が下がるわけではないと思うし、聞き手も歓迎だと思うがどうだろう。

そういえば、今年は「フォー・ユー」を聴くことができなかった。
それゆえ、心残りから、上記のように感じたのかもしれない。
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# by kreis_kraft | 2008-10-26 20:47 | ジャズ
ひとり舞台に現れ、挨拶を終えたあと、「まずはソロでビートルズナンバーを」と板橋さんがボソッと口にしたとき、私の心臓がトクンと、鳴った。

ピアノに向き合うなり、静まり返ったホール中に、板橋さんの、骨太の音が響きわたる。
フォルテとピアニシモの間を激しく、そして悠然と行き来するソロピアノ。
そして、ふと、「ヘイ・ジュード」のフレーズがひそやかに流れ出てきた瞬間、私の胸はある感慨に満たされ、たちまち目に涙が湧いてきた。

*

横濱ジャズプロムナード、関内大ホール、17時30分。
「板橋文夫ソロ&ミックス・ダイナマイト・トリオ+1」のステージの冒頭。
暗闇の中、一条のスポットライトに浮かび上がるのは、ピアノを前にした板橋文夫のみ。

ソロの「ヘイ・ジュード」の間、このひとときを絶対に忘れないようにしようと、私は耳に全神経を集中させ、ピアノを弾きながら激しく動く板橋さんの背中をひたすら凝視していた。

* * *

ビートルズの名曲中の名曲、「ヘイ・ジュード」。
板橋さん、そして板橋さんの人となりを知る者にとって、この曲は特別な意味を持っている。
そう、この曲は、板橋さんがフェイヴァリット・ピアニストとして名を挙げる、故本田竹曠が好んで演奏したナンバーだったのだ。

1970年代、共に渡辺貞夫グループで活躍し、この巨大な存在の薫陶を受けた本田竹曠と板橋文夫、実は国立音楽大学の先輩後輩の間柄。加えて師事したピアノ科の先生も同じである。

その頃(引用者注:国立音大生になった頃)O・ピーターソンのなどのレコードコピーなども少しやっていたが、もっと深くジャズに感銘したのは本田さんのピアノを学校の芸術祭で聴いた時だった。ピアノがこわれんばかりの強力なタッチとそのソウルフルな歌心に圧倒された。それからはもう寝てもさめてもジャズで、先輩の碇さんにバークレーの理論を習ったり、マッコイ・タイナーの『インプレッション』など聴きまくった。
板橋さん自身による『ライズ&シャイン』(コジマ録音 1976年)のライナーノートより引用したが、本田竹曠がいなければ「ジャズピアニスト板橋文夫」の誕生はなかったかもしれない。
4才年上の本田竹曠は板橋さんにとって、まさに、特別な存在だったわけである。


06年3月5日、本田竹曠が亡くなって約2ヵ月後、「追悼コンサート」が行なわれた。
渡辺貞夫をはじめとする数多くのミュージシャンが出演したこのコンサートで、最初のプログラムが、板橋さんのソロ。そして弾いた曲が「ヘイ・ジュード」だったとあとで知り、故人に寄せる板橋さんの敬愛の深さに目頭を熱くし、野暮用があって行けなかったのが、悔やまれてならなかったものである。
文字通り、歯ぎしりする思いだった。

* * *

それからおよそ2年半が過ぎ、聴きたくてたまらなかった「ヘイ・ジュード」を、目の前で板橋さんが、弾いている。
ただ、感無量であった。
この世からいなくなっても、本田さんのスピリットは、板橋さんによって確かに受け継がれている…そんな確信に包まれた、至福のひとときだった。

*

「ヘイ・ジュード」の熱演のあと、井野信義(b)、小山彰太(ds)のおふたりが登場し、「ミックス・ダイナマイト・トリオ」。沖縄の童謡「えんどうの花」が、よかった。
最後に外山明(perc)が加わり、白熱の演奏で終了。

しかし。
率直に言って、私はこのステージ、「ヘイ・ジュード」の衝撃があまりに強すぎて、その後は少々ボーッとしていたかもしれない…

このトリオ+1、ホールではなくどこかのライブハウスで改めて、聴きたいもの。
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# by kreis_kraft | 2008-10-23 22:19 | ジャズ
10月12日(日)はさわやかな好天に恵まれた。
野外で演奏する人たちはさぞかしホッとしたろうと思いながら、身支度を整え、横浜へ。
昨年は桜木町で降り「みなとみらい大ホール」を目指したが、今年は関内まで。
駅から脇目もふらず、まっすぐ「関内ホール」へ。

ホール入口横に人だかりが出来ている。街角ライブだ。やってるやってると嬉しくなる。
大学のジャズ研の学生だろうか、懸命の演奏を2曲ほど聴いたあと、地階の小ホールへ。

開演20分前、約6割ほどの入りである。
前から3列目の席に腰を下ろし舞台を眺めていると、市川さんが出てきてピアノのチェック。
この方が市川秀男なのかと、そのうしろ姿、鍵盤をすべる指先に見入ってしまった。

市川秀男(p)、加藤真一(b)、二本柳守(ds)

1時間のステージで演奏されたのは5曲。アップテンポの最初の曲の、一音一音の粒立ちはっきりしたピアノ演奏に、いきなり背筋がシャキッとなる。
次いで、市川さんのMCをはさんで立て続けに3曲。それぞれ陰翳に富んだ演奏に、「フトコロの深さ」といったものが感じられる。この方、その気になれば、フリーも難なくこなすだろう。
(そういえば市川さんには故富樫雅彦氏との共演盤があるが、これは近いうちに入手し、聴いてみたいと思っている)
加えて、作曲の才も図抜けたものであることを再認識。特に、ベースをフィーチャーした「夏によせて」、美しい情感に溢れた佳曲だと思った。

ジョージ大塚のグループで世に出たのが1966年、すなわち42年のキャリアを持つこの大ベテラン、もっとその名が喧伝され、高い評価を受けていいピアニストだと思う。
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# by kreis_kraft | 2008-10-16 22:57 | ジャズ